映画『すずめの戸締り』を観終わった後、美しい映像や壮大な音楽に感動する一方で、「正直、物語の意味がわからない…」と、どこかスッキリしない気持ちを抱えていませんか?
多くの観客を魅了したこの作品ですが、同時に、物語が一体何を伝えたかったのか、なぜか登場人物に共感できない、といった感想を持つ方も少なくありません。
また、一部では内容がおもんない、あるいは震災の描写が不愉快だと感じる声や、物語の鍵を握るキャラクターであるダイジンの正体、そしてその行動の裏にある背景からダイジンがかわいそうに見えるなど、様々な意見が交わされています。
この記事では、そんなあなたの心に残る疑問やモヤモヤを解消するため、『すずめの戸締り』という作品を多角的な視点から深く、そして分かりやすく紐解いていきます。
・ダイジンや登場人物に対する多様な感想や解釈
・作品が本当に伝えたかったメッセージやテーマ
・物語の象徴や神話的背景の解説
なぜ?『すずめの戸締り』が意味がわからない5つの理由
- ストーリーが単調で「おもんない」という感想
- 主人公の行動に共感できないという意見も
- 多くの謎と物語の鍵を握るダイジンの正体
- 自由を求めた?ダイジンがかわいそうとの声
- 震災の描写が生む「不愉快」という感情
- 抽象的な表現が「意味がわからない」を生む
本作に寄せられる様々な感想
『すずめの戸締り』には、感動の声だけでなく、下記のような様々な角度からの意見が存在します。この記事では、これらの点についても詳しく解説していきます。
感想の種類 | 主な理由 |
---|---|
意味がわからない | 抽象的な表現、意図的な説明不足、神話的モチーフの多さ |
おもんない | 単調なストーリー展開、過去作との既視感 |
不愉快 | 現実の震災の扱い方、キャラクターの身勝手な行動 |
共感できない | 主人公の突飛な行動、登場人物の心理描写の不足 |
ストーリーが単調で「おもんない」という感想

ストーリーが単調で「おもんない」という感想
『すずめの戸締り』は興行的に大成功を収めた一方で、一部の観客からは「おもんない」「退屈だった」という厳しい評価も受けています。なぜ、そのように感じられてしまうのでしょうか。
主な理由として、ストーリー展開の単調さが挙げられます。物語の基本構造は、主人公のすずめが日本各地を巡り、災いの元となる「後ろ戸」を閉じていくというもの。
この「戸締りの旅」が何度も繰り返されるため、中盤以降、展開がパターン化していると感じ、「中だるみ」や「先が読める」といった印象を抱く人がいるのです。
確かに、次々と現れる後ろ戸を閉めていく展開は、ロードムービーの面白さがある反面、物語の緊張感が一定になりがちかもしれませんね。
また、新海誠監督の過去作である『君の名は。』や『天気の子』と共通する「災害と青春」「喪失と再生」といったテーマや、美しい映像表現に既視感を覚え、「また同じパターンか」というマンネリ感を指摘する声もあります。
映像の美しさは誰もが認めるところですが、その映像美に頼りすぎているあまり、物語自体の新鮮さや深みが感じられなかった、という意見も「おもんない」という感想に繋がっているようです。
主人公の行動に共感できないという意見も

主人公の行動に共感できないという意見も
物語の評価を大きく左右するのが、主人公に感情移入できるかどうかです。
この点において、『すずめの戸締り』の主人公・鈴芽(すずめ)の行動に「共感できない」と感じた観客は少なくありません。
共感しにくい最大の理由は、すずめの行動原理や動機が、観客に十分説明されないまま物語が進行する点にあります。
彼女は物語の冒頭で、見ず知らずの青年・草太に強く惹かれ、彼の後を追いかけますが、その行動は非常に突発的に見えます。
叔母の環(たまき)の心配を振り切ってまで、危険な旅を続ける彼女の姿に、観客は「なぜそこまでして彼を助けたいのか?」という疑問を抱き、感情移入の機会を失ってしまうことがあります。
共感を呼ばない行動の例
- 理由もわからず危険な「後ろ戸」を開けてしまう。
- 初対面の草太を盲目的に信じて旅に出てしまう。
- 自分を育ててくれた叔母の気持ちを顧みないように見える言動。
もちろん、これらの行動は彼女が抱える過去の喪失感や、草太との出会いがもたらした運命的な衝動によるものと解釈できます。
しかし、その内面描写が詩的・抽象的であるため、観客によっては「自分勝手」「周りを振り回している」と映ってしまい、共感から遠ざかってしまう一因となっているのです。
多くの謎と物語の鍵を握るダイジンの正体

多くの謎と物語の鍵を握るダイジンの正体
『すずめの戸締り』の物語をミステリアスに彩り、観客を惹きつけもすれば、時に混乱させもするのが、人の言葉を話す謎の白猫「ダイジン」の存在です。
彼の正体こそ、物語を理解する上で非常に重要な鍵となります。
結論から言うと、ダイジンの正体は、災厄(ミミズ)が現世に現れるのを防ぐための封印「要石(かなめいし)」です。
要石は、日本の神話や伝承において、地震を引き起こす巨大な鯰(なまず)や龍の動きを地中深くで抑え込んでいるとされる神聖な石のこと。ダイジンは元々、九州の地でその重大な役目を担う東の要石でした。
物語は、すずめが「あなたはうちの子になる?」と声をかけ、この要石を引き抜いてしまったことから大きく動き出します。
本来の役目から解放されたダイジンは、自由な猫の姿を手に入れますが、それは同時に災厄を抑える封印が一つ失われたことを意味します。
彼がすずめや草太を各地へ導くように見えるのは、次の要石となる存在(草太)を見つけ、自身が放棄した役目を押し付けようとしていた、と解釈することもできます。
自由を求めた?ダイジンがかわいそうとの声

自由を求めた?ダイジンがかわいそうとの声
ダイジンは草太を椅子に変えたり、ミミズの出現を結果的に手助けしたりと、一見すると物語の混乱を引き起こすトリックスター、あるいは悪役のように見えます。
しかし、多くの観客が彼に対して「かわいそう」という同情的な感情を抱いています。
その理由は、彼の行動の根底に「役目からの解放」と「愛されたい」という切実な願いが感じられるからです。
ダイジンは、計り知れないほど長い時間、自由を奪われ、たった一人で災厄を封じ込めるという重い宿命を背負ってきました。すずめによって要石から解放された彼は、初めて自由を得て、純粋に「すずめの子」として遊び、愛されたいと願ったのです。
ずっと孤独だったダイジンが、すずめに「うちの子になる?」と言われた時の嬉しさを想像すると、胸が締め付けられますね…。
ダイジンの二面性
ダイジンの行動は、身勝手な「加害者」の側面と、宿命に縛られた「被害者」の側面を併せ持っています。
この善悪では割り切れない複雑なキャラクター性が、物語に深みを与え、「ダイジンはかわいそう」という感想を生む大きな要因となっています。
最終的に彼は、すずめからの本当の愛情を受け止め、自らの意志で再び要石としての役目に戻ることを選びます。
その悲しい決断と自己犠牲の姿は、観客の涙を誘い、「ただの迷惑な猫」ではなく「孤独で悲しい宿命を背負った存在」として、強く印象に残るのです。
震災の描写が生む「不愉快」という感情

震災の描写が生む「不愉快」という感情
『すずめの戸締り』が他の新海作品と一線を画す点として、東日本大震災という現実の災害を物語の核として扱っていることが挙げられます。
この非常にデリケートなテーマの描き方に対し、一部の観客からは「不愉快だ」「不謹慎ではないか」という否定的な反応も寄せられました。
「不愉快」と感じる主な理由は、現実の計り知れない悲劇や個人の痛みを、フィクション、特に商業的なエンターテイメント作品の題材として「消費」しているように見えてしまう点にあります。
緊急地震速報のアラーム音や、津波を想起させる描写は、被災経験のある方やその関係者にとって、辛い記憶(トラウマ)を直接的に刺激する可能性があります。
また、現実の重いテーマを扱いながらも、物語の大部分がファンタジーとして展開されることへの違和感も指摘されています。
現実の痛みとファンタジーの美しい世界の融合を「感動的」と捉える人がいる一方で、「現実の悲劇を軽んじている」「安易にエンタメ化している」と感じ、作り手との間に距離を感じてしまう観客もいるのです。
これは作品の優劣の問題ではなく、観る人それぞれの経験や価値観によって、受け止め方が大きく分かれる、非常に難しい問題であると言えるでしょう。
抽象的な表現が「意味がわからない」を生む

抽象的な表現が「意味がわからない」を生む
前述の様々な感想の根源とも言えるのが、本作の徹底して抽象的・詩的な表現方法です。
物語の核心部分が、論理的な説明ではなく、観る人の感覚や感性に委ねられているため、「結局、何が言いたかったのか意味がわからない」という状態に陥りやすいのです。
例えば、物語の重要な舞台となる「常世(とこよ)」は、死者の魂が行き着く異界として描かれますが、その法則や時間の流れについては一切説明がありません。また、災厄の象徴である「ミミズ」も、なぜ現れるのか、どうすれば完全に消滅するのかといった理屈は語られません。
本作の抽象的な要素
- 常世:過去も未来も現在も同時に存在する、死者と記憶の世界。
- ミミズ:人々の悲しみや後悔の念が集まって生まれる、地震のエネルギーの具現化。
- 戸締り:過去の悲しみへの鎮魂と、未来へ進むための区切りの儀式。
新海監督は、セリフで全てを説明するのではなく、映像や音楽、登場人物の表情や行動を通して、観客に「感じてほしい」と考えているようです。そのため、物語を理屈で理解しようとすればするほど、説明のなさに戸惑い、「意味がわからない」という感想に行き着いてしまう構造になっているのです。
解説で納得!『すずめの戸締り』意味がわからないを解消
- 結局、この映画は何を伝えたかったのか
- 『すずめの戸締り』の題名に込められた鎮魂
- 神話や伝承がモチーフのファンタジー要素
- 省略された描写と意図的な説明不足の謎
- 結論:『すずめの戸締り』が意味がわからないあなたへ
結局、この映画は何を伝えたかったのか

結局、この映画は何を伝えたかったのか
様々な要素が複雑に絡み合う『すずめの戸締り』ですが、作品全体を貫く最も大きなテーマは、「喪失との向き合い方と、その先にある再生」だと考えられます。
主人公のすずめは、幼い頃に震災で母親を亡くしたという大きな喪失を抱えています。彼女が日本各地を巡る「戸締りの旅」は、単に災厄を防ぐ冒険ではありません。それは、各地に残された人々の「失われた日常」に触れ、最終的に自分自身の過去の痛みと向き合うための、「心の戸締り」の旅でもあるのです。
旅の終わりで、すずめが幼い頃の自分に「私は、あなたの明日」と語りかけるシーンは、まさにこのテーマを象徴していますよね。
この物語は、辛い記憶や悲しみを「なかったこと」にするのではなく、きちんと受け止めて、敬意をもって区切りをつけ、それでも続いていく未来を生きていくことの大切さを伝えています。それは、すずめ個人の物語であると同時に、災害を経験した私たち社会全体に向けられた、力強くも優しいエールと言えるのではないでしょうか。
『すずめの戸締り』の題名に込められた鎮魂

『すずめの戸締り』の題名に込められた鎮魂
本作のタイトルにもなっている「戸締り」という行為。これは、物語の核心に触れる非常に多層的な意味を持つキーワードです。
日常における「戸締り」は、防犯や安全確保のための行為ですが、この物語においては、もっと精神的で儀式的な意味合いが強くなります。
すずめが行う戸締りは、災いの元凶であるミミズが現世に出てこないように「後ろ戸」を物理的に閉じる行為であると同時に、過去の悲しい記憶や、失われた人々への想いに区切りをつけるための精神的なプロセスを象徴しています。
特に重要なのが、戸を閉める際にすずめが唱える祝詞です。
「かけまくもかしこき日見不の神よ。遠つ御祖の産土よ。久しく拝領つかまつったこの山河、かしこみかしこみ、謹んでお返し申す。」
この言葉は、その土地にかつて住んでいた人々や、その場所を守ってきた神々への深い敬意と感謝を表しています。単に災厄を「封じる」のではなく、その土地の記憶や歴史を敬い、祈りを込めて鎮める「鎮魂」の儀式なのです。この視点を持つことで、「戸締り」という行為の持つ本当の重みと意味が理解できます。
神話や伝承がモチーフのファンタジー要素

神話や伝承がモチーフのファンタジー要素
『すずめの戸締り』の世界観を「意味がわからない」と感じさせる一因は、その独特のファンタジー設定にあります。しかし、これらの多くは、実は日本に古くから伝わる神話や伝承に基づいています。
ミミズと要石の伝説
物語で最大の脅威として描かれる「ミミズ」は、日本の伝承において地震を引き起こすとされる巨大な鯰(なまず)や龍(蛇)がモチーフです。古来、人々は地面の下に巨大な生き物がいて、それが暴れることで地震が起きると考えていました。
そして、そのミミズ(大鯰)を抑え込むのが「要石」です。これは単なる物語上の創作ではなく、実際に茨城県の鹿島神宮や千葉県の香取神宮には、地震を鎮めるための要石とされる霊石が祀られており、有名な伝説となっています。ダイジンとサダイジンが、この要石の化身であると理解すると、彼らの役割や行動の背景がより明確になります。
ダイジンやサダイジンが、鹿島神宮と香取神宮の神様(武甕槌神と経津主神)と関連していると考えると、物語がさらに面白くなりますね!
このように、物語の根底には日本の伝統的な自然観や信仰心が流れています。これらの背景を知ることで、一見突飛に見えるファンタジー要素が、実は文化的な裏付けを持った設定であることがわかり、作品への理解が格段に深まるはずです。
省略された描写と意図的な説明不足の謎

省略された描写と意図的な説明不足の謎
「閉じ師の家系って具体的に何?」「なぜダイジンはすずめにだけ懐いたの?」「常世と現世の時間の流れはどうなっているの?」――物語を観終わった後、こうした数々の疑問が残るのではないでしょうか。本作では、観客が抱くであろう多くの疑問に対して、意図的に明確な答えが提示されません。
これは、新海誠監督の作家性とも言える特徴です。彼は、物語の全ての要素に論理的な説明をつけるのではなく、あえて「説明しない部分」を残すことで、観客一人ひとりの想像力や解釈に委ねる手法を多用します。
例えば、草太がなぜ「椅子」に姿を変えられたのか、その詳細なメカニズムは語られません。重要なのは「なぜ椅子になったか」という理屈ではなく、「大切な存在が人間ではない形になってしまった」というすずめの絶望感や、それでも彼を運び続けるという愛情の深さを、観客が感じることなのです。
いわば、この映画は理詰めで解くミステリーではなく、心で感じる詩のような作品です。説明不足と感じる部分は、物語の「欠陥」ではなく、観客が自らの感情や経験を投影し、自分だけの物語の意味を見つけ出すための「余白」として、意図的に作られていると考えることができるでしょう。
結論:『すずめの戸締り』が意味がわからないあなたへ

結論:『すずめの戸締り』が意味がわからないあなたへ
この記事では、『すずめの戸締り』が「意味がわからない」と感じる理由や、様々な感想、そして物語の背景にあるテーマやモチーフについて解説してきました。最後に、本記事の要点をまとめます。
- 『すずめの戸締り』は抽象的・詩的な表現が多く難解に感じやすい作品
- 「意味がわからない」という感想は決して珍しいものではない
- 物語の単調さや過去作との類似性から「おもんない」と感じる人もいる
- 主人公すずめの突発的な行動に「共感できない」との声も少なくない
- 現実の震災を扱うテーマ性に「不愉快」や抵抗を感じる意見も存在する
- 謎の猫ダイジンの正体は、災厄を封じる神聖な「要石」である
- 重い宿命を背負うダイジンの境遇は「かわいそう」とも解釈できる
- 映画が伝えたかった最も大きなテーマは「喪失からの再生」
- 「戸締り」は過去の記憶への敬意と鎮魂を象徴する重要な儀式
- 物語の根幹には日本の神話や「要石伝説」といった伝承がある
- 意図的な説明不足や省略は、観客の想像力に委ねるための演出手法
- 論理的な理解よりも、映像や音楽から「感じる」ことが作品を楽しむ鍵
- 小説版を読むと、登場人物の心情がより深く理解できる場合がある
- 本作の魅力は、観る人によって多様な解釈ができる点にある
- この記事が、あなたの疑問やモヤモヤを解消する一助となれば幸いです