今浪隆博さんは、母親からの温かい励ましと支えを受けながら、プロ野球選手としての道を切り開いてきました。母親は今浪さんが思春期の頃から「あなたはいい選手、プロになれる」と常に励まし続け、その言葉が彼の成長の糧となったのです。地元の高校ではなく京都府の平安高校へ進学したのも、母親の強い勧めがあったからこそ。プロ入り後も、妻・亜咲さんの支えが大きな力となりました。気配り上手で知られる亜咲さんは、今浪さんの挑戦を常にそばで見守り、支えてくれたのです。母親からの愛情と妻の献身的なサポートを受けて、今浪さんは順風満帆なプロ生活を歩んできたかに見えますが、その裏にはさまざまな試練もあったのです。
今浪隆博:母
野球を続けられたのはプロ野球選手になりたかった隆博に対して母親が励ましてくれていた、あんたはいい選手、プロ野球選手になれると常に励まし続けてくれていたのです。当時は思春期もあり、恥ずかしかったが、褒めてくれて自慢されるのは嬉しい。ありがたさが身にしみると話しています。母親から褒めて成長させる事の大切さを知ったようです。
今浪さんは地元の高校に行きたかったのですが、母親が地元だと野球が疎かになると考え、母親の説得から京都府の平安高校に入ったらしく、平安高校で甲子園出場も果たしプロの第一歩となりました。ちなみに明治大学も母親の意向に沿って入りました。そんな今浪さんの母親ですが、実はテレビに美魔女として紹介された事があります。隆博さんの友人が母親に本気で告白した事があるようで、テレビをみた知り合いから告白したのは誰なんだと連絡がたくさん来て大変だったようです。
今浪隆博:嫁
今浪さんの奥さんは神奈川県で放送されていた「みんなが出るテレビ」のレポーターをされていた大野亜咲さんです。亜咲さんはこの番組では気配り上手で、可愛く伝説のレポーターと言われていました。気配り上手と言う所で、野球選手の奥さんにはピッタリだと言われていました。
今浪隆博:結婚
2007年12月25日会社員であり大学の同級生と入籍したとネットでは出ており、結婚したときに撮ったと思われるツーショットの写真もありました。奥さんの笑顔がとても素敵です。2007年といえば今浪選手はプロ1年目で23歳、かなり早い結婚と言えます。YouTubeではご自身のことは話していませんが、野球選手の結婚が早くない?訳という動画もあります。
その中では、プロ1年、2年目で結婚する人も多く、プロに入ってこれで行けると思った人が結婚する人が多いと語っています。逆に中々早く結婚する事を逃すと独身の人も多いようです。身の回りの事をサポーしてくれる人を見つけ早めに結婚したいという人もいます。有名な方になると結婚発表もしなければなりませんので、プロ野球選手は結婚が早いと思われてしまう所はあるそうです。
今浪さんはプロに入るときに戦力外になると言われて入団し、一年目で一軍には行かなかったものの、二軍で結果を残した事で、戦力外通告の話は来ず、契約となりました。12月に入籍していますので、まだ戦力外通告があるのか、なかなか大丈夫だとは言えない微妙な時期なので、結婚しても二人でどんな事があっても乗り越えていこうと言う想いからの結婚かもしれません。今浪さんは3人の男の子のお父さんです。三男は來希くんという名前で、トレードの未来への希望という意味を込めてつけられたようです。
今浪隆博:年俸
今浪さんは2006年のドラフトの7巡目で日本ハムファイターズに指名されました。まさかドラフトに入るとは思わず、本人はバイトの面接を入れていました。2007年日本ハムファイターズに所属し、内野手として徐々に活躍していきます。攻守共に優れており、内野手だけでなく外野手としても活躍されていました。
2014年に交換トレードで、ヤクルトスワローズに所属し、次の年の優勝にも貢献しました。ヤクルトに入った事で、日本ハムにいたときよりも打率が著しく増えています。特に優勝した2015年には一番打率が良かったです。2016年に体調に異変が起きるのですが、2016年に一番ヒットの数も多く、打点も一番多いです。
推定年俸を見てみると、やはり活躍された次の年の年俸が多くなっています。日本ハム入団当初から2011年までは720〜850万と伸び率は少ないのですが、2012年には一気に1350万になりました。ヤクルトに入って2015年、2016年と活躍されましたので、2016年1950万、2017年は3000万と急上昇しています。ヤクルトでは、守備固めの日本ハムとは違い打つだけに集中できたので、気持ちが楽になったと話しています。
守備でも内野のどのポジションも万能にこなせ、ここ一発決めてくれる代打として活躍されていたようです。ヒーローインタビューでもたのしませてくれ、4年しかヤクルトにはいませんでしたが、ファンにはとても愛され、ファン感謝デーで引退セレモニーもしたほど、引退を惜しまれていました。
今浪隆博:関西弁
今浪さんは関西出身ではなく、北九州出身です。高校で京都の平安高校に来て、当初は九州弁を話していましたが、周りがみんな関西弁を喋っていたこともあり、関西弁になっていったようです。関西弁じゃないと監督にイジられる事もあり、わざわざ関西弁を勉強し、20年たった今では染み付いています。
ユーチューブ相方(天の声さん)
今浪さんのYouTubeははじめは一人で話していましたが、平安高校時代の同級生との居酒屋での会話の動画のときから、相方さんは出ていました。もう一人の同級生は動画に出ていて、ノミの心臓と言う名前の方は、動画には映らず、今浪さんに疑問を投げかける役目。今の天の声さんと同じスタイルで、その後から天の声さんが動画には欠かせなくなって行きました。
天の声さんは、平安高校で今浪さんと同じ野球部で、2年生では4番を打っていたこともあります。その後は二軍になったようですが、二軍の試合で一試合2ホームランを打っています。身体能力も高くメンタル面でも強くノミの心臓と呼ばれていました。今浪さんは高校の時はレギュラーで通算20本のホームランを打っていますが、天の声さんは補欠で通算10本のホームラン。今浪さんからしても相方さんより劣っていた所は多かったと話していました。甲子園にいく強豪校のレギュラーを掴むのにはかなり競争率が高かったのでしょう。
天の声さんは監督イップスだったらしく、今浪さんはその原田監督に立ち向かっていく事ができていたようです。その後日本体育大学に入り、3年で3軍のキャプテンに就任しています。大学まで本格的に野球をやられていた天の声さんも、今浪さんのプロならではの話や技術にはいつも関心を持って素で返事をしたり質問をしたりしています。天の声さんへの質問動画は2024年3月と5月に出ていて、二人の掛け合いやエピソードが面白いのでぜひ見てみると今浪さんの高校時代の知らなかった話しも聞けて楽しいです。
今浪隆博:大学時代
今浪さんは立命館大学に通いたかったのですが、プロになるには明治大学のほうがいいと母親から説得され、明治大学に進学。1年の時から試合に出場し、秋希新人戦ではタイムリーを打ち優勝に貢献します。その後の活躍が期待されていましたが、腰を痛めレギュラーから脱落してしまいます。3年で復帰をしますがいい成績を残せませんでした。そして最後の年の4年春季リーグでショートスタメンで打率3割代をマークすると秋季リーグでは首位打者争いするを程に上り詰めました。4年のときの活躍からプロのスカウトの目に止まった事は間違いないです。
今浪隆博:事務所
今浪さんは事務所には所属されていないようです。YouTubeからのリンクで、今浪さんの公式サイトへ飛べますが、そこに今浪さんの紹介から、スポーツする人へのメンタル的な話まで、見ているだけでもとても参考になります。その公式からコーチングの応募ができるようになっています。
ジュニアプランから、軟式、草野球プラン、アスリートプラン。指導者プランもありますが保護者向けのプランまでもある事に驚きました。確かに子供達のメンタルに関わってくるのは保護者ですから、保護者の指導をする人はあまりいないですね。今浪さんは、派遣講師としても登録されているようです。所属団体としては、日本スポーツメンタルコーチ協会、日本プロ野球OBクラブです。
今浪隆博:引退理由
当時ヤクルトだった今浪選手が引退を表明した理由は甲状腺の病気(橋本病)が原因でした。医者が見ると正常でも、自分ではもうプロでは続けられないくらいの症状だと引退会見で発言されています。(2017年にはヘルニアも患っていました)詳しい病名は甲状腺機能低下症これを橋本病とも言われます。慢性甲状腺炎で、炎上と言ってもウイルスが入り込むのではなく、自己免疫異常で発症すると言われています。
血液中の甲状腺ホルモンが不足することで、むくみや、皮膚の乾燥、寒がりになる。食欲がなくても体重が増える。脈がゆっくりになる。抑うつ症状等の症状があります。甲状腺腫があるだけで、他に症状がい人もいます。甲状腺腫が大きくても機能低下が著しくあるわけでもなく、甲状腺腫が目立たないのに、甲状腺機能低下があることもあり、人それぞれ違うので辛い人もいれば気づかない人もいるのです。今浪さんは2016年から食べなくても体重増加やむくみがひどく病院に行き甲状腺機能低下症画判明しましたが、特に抑うつ症状がひどくなって色んなところに相談に行きました。
しかし、プロアスリートの気持ちは、経験したものしかわかって貰えない気持ちになり、プロでやっていくことを断念しました。会見で、医者は正常と言っても、プロでは続けれない症状という言葉が出てきたのもその為です。もし、プロの経験を持つスポーツメンタルトレーナーがいたら、まだ野球は続けていたのかもしれないという思いから自分がスポーツメンタルトレーナーになろうと決意をされました。